イラっとしたときこそ人との縁について考える。
最近、外出先で人の悪口や愚痴を話しているグループによく遭遇する。
自分の悪口を言われているわけではないのに、漂う空気感がそうさせるのか、私まで気持ちがネガティブなほうに持っていかれてしまう。
つい
“人の悪口言う前に自分の言動を見なおしてみたら?”
と、心の中で、悪口を言っている人に対して
今度は私が悪口を言っている状態が発生することがある。
そうなってしまった時に、
“だめだだめだ・・・それじゃ私も一緒じゃないか。”
と考えを切り替えるようにしている。
人の縁というのは、いかなる場面でも必然で何か意味があることだとよく言う。
だからそんな時は
・自分の気持ちをネガティブにさせたのはどのような部分なのか?
・その状況に遭遇した私はそこから何を学べるだろうか?
・自分も同じようなことをしていないだろうか?
・悪口、愚痴を言っている人達がどうしたらそういうことを言わなくて済むようになるか?
などを考えて、グチグチ言っている人達に対しての不快感を別の形に変えて自分の人生の糧にしている。
そのほかのシチュエーションでも、誰かにイライラさせられた時も同じように対処している。
・店員さんにものすごく待たされる
・電車で足をふまれる
・歩きスマホをしている人に思いっきりぶつかられる etc
比較的温厚に見られがちだが、イラつくのは人より早い。
だからこそイライラは自分の中で解消するようにしているし実際できるようになった。
イライラを表に出すことは、
相手を威嚇したり、別の人に話して同情してもらえる。
けれどイライラを表に出されたほうの人達にも少なからずネガティブな感情が伝染するのだ。
故意にぶつかったわけじゃないのに怒鳴り散らされたら怖いし、会うといつも会社の愚痴を言ってくる友人がいたら気持ちが重くなるだろう。
そのような体験をしたら、自分も周りに強くあたってしまったり、他の人に愚痴を言いたくなってしまうかもしれない。
そうなってしまうと伝染したイライラはどんどん広がってしまう。
実際やってみるとわかるのだが
①イライラ体験を人に話す。その場で嫌な顔をして文句を言う。
②心のなかでとどめ、自分は何にイラっとしたのか考える。
どちらのパターンでも「イライラした」という事実は消せていないのだ。
むしろ、①のようにイライラを表に出したほうが、記憶に残りやすく、思い出しイライラを発生させることもあるだろう。
イライラというのは、自分の価値観・概念とズレる言動をした人間に出くわした時に発生する。
・時間どおりに待ち合わせ場所に到着して当たり前→遅刻された。イラっ
・注文した料理は提供されて当たり前→オーダー通ってなかった。イラっ
つまり自分の期待していたことと異なる事態が発生した時に人はイライラするのだ。
イライラしないための準備としては、「期待しない」ことが大事。
ただどんなにポジティブに考えようとしていても、生きていれば必ず色々起こる。
だから、ネガティブな感情にさせられたと思うような人との縁も必然だと捉えて考えてみると良いと思う。