“頑張る”という言葉が嫌いなのはなぜだろう?
最近「さー頑張るぞー」と気合いを入れようとすると、逆に頑張りたくない衝動に駆られる。
正確には“頑張りたくない”というよりは、“頑張る”という感覚に違和感を覚えるのだ。
頑張る=無理をすること?
私にとって“頑張る”という言葉は、どこか無理をしてやりたくないことをやっているイメージがある。たしかにやりたいことをやっている時は「さー頑張るぞー」なんて気合いを入れることもない。
けれど、仕事が残りわずかであとちょっとという時に発する「さー頑張るぞー」はなんだか明るい気持ちが生まれ、やる気が出てくることもあるのだ。
“頑張る”ってどういう意味?
一般的な意味はこんな感じ。
がんば‐る【頑張る】《五自他》
1.忍耐して、努力しとおす。気張る。「よく―・って見事に仕上げたものだ」 2.ゆずらず強く主張し通す。「―・って言い返す」
でも、人それぞれ“頑張る”という意味の捉え方や使い方は異なる。
たとえば
この記事でも“頑張る”について紹介されている。
私、柔道やってたんですけどケガで選手を引退して
一緒にやっていた仲間がしばらく腫れ物に触るみたいになっちゃって、遠慮されちゃったっていうか…
でも就職決まって、漫画の編集やるんだって、次はその仕事に打ち込むんだって言ったら
みんなが「心、頑張れ」って「頑張れ、応援してる」
「頑張れ」ってたくさん言ってくれて
嬉しかった
だから私は、頑張って頑張って
今まで応援してくれた人達みんなに喜んでほしいって思っています
この人からみた“頑張る”は、他人からの声援のようなもので、自分を応援してくれる人達を喜ばせるために行動することを“頑張る”と捉えている。
それに対して
入社して3年、その間僕は何をしていたんだろう
頑張る。今頑張らなければ
僕は一生ユーレイのままだ
この人の“頑張る”は、“今までよりも、もっと打ち込まなければダメだ、もっと踏ん張らなきゃダメだ”と今の自分を否定しているような印象がある。
私も“頑張る”の捉え方は後者のほうで、頑張るためには何かを我慢したり無理をしたり自分に負担をかけなければいけないと感じてしまう。
前者のような“頑張る”という捉え方をしている人にとって、“頑張る”ということはとても良いことに思える。そういう捉え方があることも理解できる。
でも、なぜ自分は“頑張る”という言葉にネガティブというか、心苦しい気持ちを持っているのだろうと考えてみた。
どんなときに「頑張れ」と言われてきたか?
もしかしたら他人から、
応援の意味を込めて「頑張れ」を言われてきた人と、
叱咤激励のような「頑張れ」を言われてきた人では、“頑張る”の意味の捉え方が違うのかもしれない。
応援で言われる「頑張れ」→「頑張れ(大丈夫!うまくいくよ)」
努力してるのは知っている。あなたを信じている。きっとできるよ!
というような意味があるが、
叱咤激励の「頑張れ」→「(もっとお前)頑張れ(よ・・・)」
なぜ努力をしないんだ?手を抜いているだろ!どうしてそんななんだ。
というような今を否定するから出てくる言葉でもあるのかもしれない。
つまり、“頑張る”という言葉には、肯定されているか否定されているかの2パターンの前提があるように思う。頑張ろうと思った時に心を苦しくしてしまうのは、「今の自分はダメだから」という自己否定があるからではないだろうか。
「頑張れ」で応援しているか?
そしてもうひとつ考えたいのが、
他人に対してどんな時に「頑張れ」と言っているか?
よくうつ病の人には「頑張れ」と言ってはいけないという。おそらく、捉え方が今の自分を否定してしまうことに繋がるからだろう。すでにすごく頑張っている状態なのに、頑張れという言葉は追い打ちをかけるようなものだ。
私自身、“頑張る”という言葉が嫌いで、頑張れと言われるのも嫌いだった。
だから他人に対して「頑張れ」ということもあまりなかったように思う。
けれど、こう考えてみると、スポーツ観戦時の「頑張れ」はとても良い意味だと捉えられるし、私が言われる立場だったとしても「よし頑張ろう」と思える。
私には“頑張る”という言葉に対してネガティブな固定概念があったんだなと書きながら気づいた。
これからは応援の意味で「頑張れ」をうまく使っていき、捉え方を変えていきたいと思う。
“頑張る”のほかにも世の中には良いとされている言葉(行動)は沢山ある。けれど、捉え方や感じ方は人それぞれ。ここまで深く考える前までは、頑張っている人はみんな我慢して無理して苦しんでいるんだと思っていたがそれは明らかに思い込みだった。
一般的には良いとされているからとか、当たり前だからとか、
そんな理由で自分の間違った解釈のまま、“頑張る”ことをし続けなくてよかったと思う。
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